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群馬県の農業生産は主に養蚕で支えてきたため、県内には養蚕農家集落が多く点在している。

その一つが県中西部にある吾妻地区の東吾妻町郷原で、戦国時代に真田家が拠点としていた岩櫃山を背後に控える。

吾妻線郷原駅のホームからは、大規模な高窓付きの養蚕農家が見える。

駅を出て踏切を渡った先には、出桁造りで高窓付きの三階層や兜造りの屋根とこの地区独特の養蚕農家が建ち並ぶ旧街道がある。

町並みとしては小規模ながら、駅近くで濃密な山村農家集落に出会うのは極めてまれだろう。


【群馬県】郷原(東吾妻町)202008 

駅を出て線路に並行する旧街道には、集落の規模こそ小さいながら豪勢な造りの養蚕農家が並んでいる。 

駅近ながら農家集落が密度濃い状態で残っているのは珍しい。 

特に規模が大きく、海鼠壁の土蔵を持つ三階建ての農家は、往時の隆盛を想像させる。  

しかし、住人はいない様子でいつ消えるかわからないので、訪問は早い方がいいかも知れない。



上毛かるたで「世のちちり洗う」と謳われる四万温泉は、中之条駅からバスの便で50分、山麓を流れる四万川の上流域に位置する。 

開湯は「四万の病を治す霊泉」という神託による説があり、地名にもなっている。 

谷間に広がる温泉街は近世から見られ、「薬湯」と伝えられたことで湯治場として知られ、かつては湯治旅館が多かったという。 

ランドマーク的な存在となっているのが国登録有形文化財にもなっている積善館もその一つだ。

温泉街は5つのエリアに区分されるが、中心部にあたる「新湯」エリアには昭和レトロ感が漂う「落合通り」を中心に温泉街としての風情が色濃く感じられる。


【群馬県】四万温泉「積善館」(中之条町)202008 

古くから湯治場として知られていた四万温泉には、かつては湯治旅館が多かった。 

その流れを汲むのが、ランドマーク的な存在でもある積善館で、新湯川に架かる赤い慶雲橋の先にある。 

橋を渡って正面の本館は元禄4年築で、アーチ形のモダン窓とアールデコの洋風も兼ね合わせた昭和5年築の木造の湯屋「元禄の湯」は、映画『千と千尋の神隠し』に登場する「油屋」のモデルといわれる。


【群馬県】四万温泉「落合通り」(中之条町)202008 

古くからの湯治場だった四万温泉は、草津や伊香保と異なり歓楽街要素が薄い温泉街である。 

谷間に続く温泉街は5つのエリアに分かれていて、風情を最も残しているのがその中心地の「新湯」エリアで、特に「落合通り」は狭い通りに遊技場や飲食店、土産店が向き合いながら並び、昭和レトロの雰囲気を自然に出している。



京都府北部の日本海に面する港湾都市・舞鶴は、市の中心部に五老岳があるため、市街地が東西に分かれ、それぞれ性格が異なる。 

東舞鶴は明治に海軍鎮守府が開府されたのを機に発展した軍都に対し、近世から城下町として発展してきたのが西舞鶴である。

”田辺”という地名だった西舞鶴に細川藤孝が天正10年に築城、城下町が形成され、現在も街割りが残っている。

京都へ向かう京街道や東西の若狭街道が交差し、リアス式海岸の入江に囲まれた良港を持つことから、商業が発展するには充分な立地条件である。

西回り航路の開設により寄港地となり、背後地の高野川河口沿いには廻船問屋を中心に商家が建ち並ぶようになる。

現在も往時の雰囲気を残す町並みを見せているのが竹屋町と呼ばれる一角である。


【京都府】西舞鶴「竹屋町倉庫群」(舞鶴市)201908 

西舞鶴は近世から田辺城を擁する城下町として発達して来た。 

城下町は、若狭湾に注ぐ高野川の水運と海沿いを通る若狭街道、京へ向かう京街道が交差する陸路と交通の要衝でもあった。  

中でも高野川が流れる竹屋町は廻船問屋を中心とした商業地で、現在も川に沿って土蔵が連なり、往時の発展ぶりを垣間見ることができる。



京都府北部の日本海に面する港湾都市・舞鶴は、市の中心部に五老岳があるため、市街地が東西に分かれ、それぞれ性格が異なる。

西舞鶴が近世から繁栄してきた田辺藩の城下町だったのに対し、東舞鶴は小さな寒村に過ぎなかった。

明治22(1889)年に湾口が狭く防御に適した舞鶴湾に海軍鎮守府の設置が決定されると、東舞鶴に海軍所施設の建設が開始され、同34年に鎮守府が開庁された。

同時に碁盤目状の市街地が区画され、軍港都市として発展する。

鎮守府軍需本部があった北吸地区には、明治34年から大正8年にかけて建設された鎮守府倉庫施設の煉瓦造り及び鉄骨煉瓦造り建築物が12棟、軍をなして現存し、うち8棟が重要文化財指定を受けている。

一方、市街地の東側にある竜宮地区はかつての遊廓地で、全盛時には貸座敷が46軒、娼妓が340~350人と規模が大きかったが、ワシントン会議により軍縮が実施されると貸座敷29軒に娼妓80人と衰退した(『全国遊郭案内』より)


【京都府】東舞鶴「赤れんがパーク」(舞鶴市)201908

京都府北部の日本海に面する舞鶴だが、市の真ん中にある五老岳のため市街地が東西に分かれている。 

江戸時代、もっとも栄えていたのは城下町だった西舞鶴の方で、東舞鶴は小さな寒村だった。  

そんな東舞鶴に鎮守府が置かれたのは明治22(1889)年で、現在市役所が置かれている北吸地区には明治から大正にかけて建造された鉄骨煉瓦造りの倉庫12棟が集結し、うち8棟が重文指定を受けている。 

これらの建築群を活用し、「赤れんがパーク」と呼ばれる観光施設として公開している。 

写真の正面に5号棟(旧砲銃庫 大正7年築)、両側に3号棟と4号棟(いずれも旧兵器廠倉庫 明治35年築)が向き合う箇所は有名な撮影スポットである。



白川郷は岐阜県北部(飛騨地方)の庄川沿いの村で、五箇山とともに深い山岳地帯にあり、集落の多くは庄川の瀬麻衣河岸段丘に集まっている。

江戸時代まで、稲作がほとんどできなかったため、わずかな畑作と焼畑で自給程度の農業生産しかできず、集落周辺の御用林の伐採や搬出、流送などで生計を立てていた。

17世紀後半頃から養蚕が本格化し、煙硝の製造もおこなわれるようになる。

特に養蚕は桑の集積や蚕の飼育で広い屋内空間を必要としていたため、家屋の屋根裏を活用する合掌造り家屋が増えた。

白川郷の中心にあたる荻町は、比較的恵まれた平坦地を持ち、庄川に沿う街道を中心に約60軒もの切妻造・茅葺き・平入の合掌造り民家が点在し、その周辺に田畑と水路が広がっている。

年間通して北からの風に合わせて妻面を南と北にとって通風を確保するため、ほぼ同じ方向に並び、独特の集落景観をなしている。


【岐阜県】白川郷(白川村荻町)201806

大規模な合掌造り茅葺き民家が並ぶ白川村荻町。 

世間一般的には"白川郷"という名で通っているこの集落、1976年に重要伝統的建造物群保存地区に選定され、95年にユネスコの世界文化遺産にまで登録された。 

写真カメラは、荻町城址の展望台(城山展望台)からの全景を撮ったもので、観光写真などで多く目にすることが多いだろう。 

ここはうってつけの俯瞰ポイントで、風景を魅力的なものにしている。  

2年前に一度訪問したことがあるが、当時は平日にもかかわらず外国人観光客で溢れ返っていた。 

とはいえ、この位置に立つと流石に迫力ある家並だと感じ、メインの通りを歩く観光客が蟻ん子のように小さく見える。 



「日光東照宮」陽明門門前


平成11年に世界文化遺産に指定された「日光の社寺」は、日光山内の東照宮、二荒山神社、輪王寺の二社一寺が抱える合わせて103棟の国宝や重要文化財の建造物群、それらを取り巻く文化的景観で構成されている。

門前町としての日光は、江戸時代に徳川家康を祀る東照宮の建立を機に整備され、五街道の一つ日光街道の終点も兼ねることで旅籠屋や土産物屋が建ち並ぶようになる。

近代に入ると、周囲を山で囲まれ、冷涼な気候と前述の豊富な文化遺産を有する景勝地として早くから欧米人に好まれた。

かつての宿場町だった鉢石町に門前町としての古い街並みが点在するが、それらはいずれも明治時代以降に建てられたものである。

二社一寺だけでなく、明治6年に開業した日本最初のリゾートホテル「金谷ホテル」や、同23年開業の日本鉄道日光線の終着駅「日光駅」、大正天皇の御用邸として整備された「旧田母沢御用邸」など見所のある近代建築も多く、国際的な観光都市として早くから知られていることを改めて認識させられる。


【栃木県】日光「日光駅」(日光市)202007 

宇都宮から日光線を梢高い日光街道杉並木に並走して1時間弱の日光駅は、明治23(1890)年に日本鉄道が開業、現在の駅舎は鉄道技師の明石虎雄の設計により大正元(1912)年に竣工されたものである。 

典雅な木造2階建てのネオルネサンス様式の駅舎は、当地を訪れる皇族や外国人を意識したもので、その名残として2階の旧特等待合室やホームにある貴賓室が今も残る。


【栃木県】日光「日光物産商会」(日光市)202007 

日光駅を出て、日光街道に沿って山へ向かって一直線に上ってゆくと、街道の最後の宿駅「鉢石宿」の古い街並みが現れる。 

そこから神橋を抜けると神域に入り、日光東照宮が終点になる。 

神橋の手前に、赤い鉄板葺き屋根の寺院のような建物が威容を放つように建っている。 

明治38年に建てられた「日光物産商会」は金谷ホテルの土産品店として開業し、日光彫や木工品、漆器類などを扱っていたが、現在は土産屋さんだけでなく食堂や喫茶も入る。


【栃木県】日光「鉢石町」(日光市)202007 

日光街道は五街道の一つで、江戸から日光東照宮への主要参詣道として整備されたが、江戸から数えて21番目で最後の宿駅が「鉢石宿」である(現在の鉢石町)。 

東照宮の門前町も兼ねていたが、現在の古い街並みは近代に入ってからで、宿場町にありがちな伝統的な商家は見当たらず、和風の意匠をしながらも外国人訪問客を意識したものが多い。

「日光物屋商会」をはじめとする土産物屋さんが軒を連ねるが、特に羊羹の店が多い。 

写真手前の独特な看板を掲げる「ひしや」もその一つだ。  

日光鉢石町「ひしや」


【栃木県】日光「金谷ホテル」(日光市)202007 

日光東照宮をはじめとする豊富な文化遺産を擁し、山々に囲まれ冷涼な気候の日光には、近代に入り多くの外国人が訪れるようになり、避暑地として別荘を構えるものも少なくなかった。 

明治6年に金谷善一郎が自宅を改装して外国人専用民宿「金谷カテッジイン」を開業したのが「金谷ホテル」の前身(現在「金谷ホテル歴史館」として公開)。  

その20年後の明治26年に日本初のリゾートホテルとして「金谷ホテル」を開業。 アインシュタインやヘレン・ケラーをはじめ、多くの外国人著名者が宿泊している。 

本館の外装は一部大谷石で、昭和11年に当初の木造2階建てだったのを地面を掘り下げて3階建てにするなど、数度の増改築を経ている。  

本館脇に建つ千鳥は風の屋根と唐派風の車寄せを持つ和風様式の建物が、昭和10年築の別館である。


【栃木県】日光「旧田母沢御用邸」(日光市)202007 

避暑地として早くから外国人に好まれた日光は、また皇室の保養地にもなった。  

銀行家小林竹雄の別邸を含む9万平米もの広大な敷地を買い上げ、病弱な大正天皇(当時は皇太子)の保養地として明治32年に整備されたのが「田母沢御用邸」である。  

紀伊徳川家中屋敷や赤坂仮皇宮などの移築や増築を重ね、宮内省内匠寮の綿密な設計により106もの部屋を抱える大規模な建築群は、江戸、明治、大正3時代の異なる建築様式をみせ、和洋折衷の生活様式が取り入れられている。 

戦前の一時期に大上天皇(当時皇太子)が疎開生活を送られたこともあり、公園敷地内に防空壕跡も数か所見られる。 現在、記念公園として一般公開されている。


【栃木県】日光「旧日光市役所」(日光市)202007 

日光には外国人訪問者の目を意識してか、和風の意匠を取り入れた建築物が多いが、その代表と言えるのが旧日光市役所日光総合支所だろう。 

天守閣風の城郭のような外観だが、元々は外国人訪問客相手の「大名ホテル」として大正8(1919)年に建てられたもの。  

しかしホテルとして利用されないまま、古川電工の職員アパート、進駐軍の社交場を経て、昭和29年から日光市役所として使用された。


【栃木県】日光「神橋」(日光市)202007 

日光駅から街道を経て旧宿場町の「鉢石町」を抜けた先に、深い渓谷の大谷川に架かる朱塗りの太鼓橋「神橋」が見える。 

 かつて参詣者はこの橋を渡って神域である東照宮に入った。


【栃木県】日光「日光山輪王寺」(日光市)202007 

世界文化遺産「日光の社寺」は、東照宮を中心とする103棟の建造物群とそれらを取り巻く文化的景観で420㌶にも及んでいるが、東照宮が建立される以前は輪王寺と二荒山神社の神仏習合による山岳信仰の聖域とされていた。 

日光山輪王寺は勝道上人が天平神護2年に建立、その本堂「三仏堂」は正保2年に改築され、阿弥陀如来・千手観音・馬頭観音を本尊とする。 

裏手には青銅製の相輪橖が聳え立っているが、住職だった天海大僧正が徳川家光の建言で建立したものだ。 

 写真は大護摩堂の前から三仏堂と相輪橖を撮ったもの。

”平成の大改装”を終えたばかりの「三仏堂」



東京観光の定番となっている皇居は、太田道灌が康正3(1457)年に築城した江戸城が起源で、徳川家康が天正18(1590)年に入城、慶長8(1603)年の江戸開府後は天下普請による拡張が着手される。

本丸・二の丸・三の丸に加え、西の丸・西の丸下・吹上・北の丸の周囲16㎞に及ぶ区域が本城で、現在の千代田・港・新宿区までに及ぶ外堀と神田川を総構えとするに発展する。

明治維新後は東京遷都により「宮城」と呼ばれ、現在の「皇居」の呼称は戦後に入ってからである。


【東京都】皇居「二重橋」(千代田区)202007 

 東京観光の目玉の一つでもある「皇居」、皇居前広場の「二重橋」をバックに写真撮影するのはテンプレとなっている。 

 手前に見える花崗岩造りの二重アーチ橋(眼鏡橋)を「二重橋」と勘違いしている人が多いが、こちらは正式には「正門石橋」と呼ばれる(明治20年架橋)。 

 厳密には奥に見える「正門鉄橋」(昭和39年架橋)を指しているが、二つの橋の総称として「二重橋」と呼ばれるのが一般的だ。  

正門鉄橋から望む正門石橋 皇居一般見学に申し込まないと望むことができない


【東京都】皇居「富士見櫓」(千代田区)202007 

皇居一般見学で最初に見るのが三重層の「富士見櫓」で、名前の通り富士山を眺める事が出来たといわれる。 

 どの方向から見ても同じ形に見えるため、「八方正面の櫓」とも呼ばれる。 

明暦の大火で天守などとともに焼失したが、この「富士見櫓」は万治2年(1659年)に再建され、再建されなかった天守の代用とされた。 

主に伊豆の自然石を加工せずそのまま積み上げられた「野面積み」の石垣は、加藤清正の施工による。 

 水はけがよく最も堅牢だったとされ、関東大震災でも倒壊されなかった。

富士見櫓 皇居東御苑からも見ることができる


【東京都】皇居「蛤濠」(千代田区)202007 

二重橋から内濠に沿って皇居東御苑に向かう途中に、直線に折れ曲がった「蛤濠」がある。  

蛤濠越しには「坂下門」と「宮内庁庁舎」が見える。 

現在は皇居となっている「西の丸」の坂の下にあったので「坂下門」と呼ばれるが、歴史的には文久2年に老中が襲われた「坂下門外の変」で知る人が多いはずだ。 

現在は宮内庁庁舎への通用口で厳重な警備で中に入る事が出来ないので、遠目から望むことになる。

宮内庁庁舎は昭和10年竣工の建築で、皇居一般見学で外観を望むことができる。

坂下門

宮内庁庁舎(昭和10年築)皇居一般見学にて


【東京都】皇居「伏見櫓」(千代田区)202007 

皇居一般見学で正門鉄橋を渡ると、レトロな電燈の背後に長い多門を従えた伏見櫓が見える。 

皇居前広場の正門石橋を眺めると見える背後の櫓がそうで、近場で見ると白壁と黒い屋根が美しいと感じる。 

3代将軍・徳川家光が伏見城の櫓を移築させたものだという説があり、この名前がついているようだ。



銀座四丁目交差点(銀座通り) 202007

東京はおろか日本を代表する商業地「銀座」は、慶長17年に徳川家康が天下普請により日比谷入江を埋め立て街割りを実施し、駿府から銀座鋳造の役所「銀座」を移転させたことから始まる。

江戸時代から町人地として発展するが、明治維新後に二度の大火に見舞われたことで、大規模な区画整理と共に銀座煉瓦街の整備が行われ、それまで木造が多かった建物の不燃化が進行する。

関東大震災や東京大空襲で大規模な被害を被ったことで、現在の銀座の町並みの大半は戦後復興によるもので、多くの建物が当時の建築基準法に基づく”百尺基準(約31メートル)”で高さが揃えられている。

関東大震災後に竣工された洋風建築は、銀座四丁目交差点の和光の他に、交詢社通り周辺に何軒か残集まっているほかは広範囲に点在している。

一方、明治以降に柳橋とともに「新柳二橋」と称された花街”新橋”が隆盛を極め、現在も東京六花街の一角として現役で、歌舞伎座や新橋演舞場付近には大型料亭が数軒残っている。


【東京都】銀座「和光」(中央区)202007

銀座を代表する風景として必ず登場するのが銀座四丁目交差点で、周辺は日本最高地価を出す場所として知られる。

東海道にあたる「銀座通り」と戦前に開通された「晴海通り」と2つの大通りが交差し、四つ角は隅丸にして歩行しやすいように整備されている。

その角地に建つのが、昭和7年築の旧「服部時計店」こと「和光」(設計・渡辺仁)で、屋上の時計塔、ネオ・ルネッサンス様式の装飾とともに、丸み掛かったコーナーのショーウィンドウは銀座を象徴として目印ともなっている。

銀座通りに沿って「木村屋」「御木本真珠」「山野楽器」「教文堂」といった明治以降の老舗が並ぶ。


【東京都】銀座「交詢社ビル」(中央区)202007

交詢社は、明治13年に福沢諭吉が発起人として結成された実業家社交クラブで、その本拠地が交詢社ビルディングである。

煉瓦造りの建物だったが関東大震災で倒壊し、昭和4年に再建されたアールデコ調の洋風建築だった。

平成16年に10階建てビルに建て替えた際に玄関部分がファサード保存されている。

明治期には100近くの新聞社が集まり、交詢社は政財界の論評と演説の場として新聞の言論を支えた場でもあった。


【東京都】銀座「電通銀座ビル」(中央区)202007

電通は明治34年に新聞社の広告を扱う設立した「日本広告」が前身で、関東大震災後の昭和9年に本社ビルとして「電通銀座ビル」が竣工された。

エントランス上部には星形の社章、左右に男女のレリーフが象られているが、左の男性は「広目天」、右の女性は「吉祥天」を表している。

1階のエレベーターホールはモザイクタイル張りで、アールデコ調の装飾が見られる 撮影201703


【東京都】銀座「泰明小学校」(中央区)202007

関東大震災を教訓に、建物の耐震化と不燃化対策の一環として被災した小学校のほとんどが鉄筋コンクリート造りで再建した「復興小学校」が東京市中で誕生した。

その代表が大正14年竣工の泰明小学校で、フランス門からは、アーチ窓が連続して並び、壁が蔦で覆われた校舎を望むことができる。

明治11年創立の学校の卒業生には、島崎藤村や北村透谷など錚々たる名前が挙げられる。

当時流行のアールデコが取り入れられた校舎 202007



桐生新町の町並み(左手前「森合資会社店蔵・事務所」大正3年築)201904

群馬県両毛地区は古くから機業町が多く、特に桐生は「東の桐生、西の西陣」と例えられるほど東日本を代表する絹織物の産地であった。

徳川家康の江戸入府により町立てが行われ、桐生天満宮から南に伸びる幅1間半(約10メートル)の本町通りを中心に東西90間の区画を範囲として「桐生新町」と呼ばれる市街地が形成された。

本町通りには間口6~7間、奥行き40間と短冊状の地割がされ、その敷地内には江戸時代後期から戦前にかけて建てられた店舗や蔵、のこぎり屋根の工場などが入っている。

この「桐生新町」が平成24年に重伝建地区指定を受けているが、周辺にも近代建築が多く残り、広いエリアにかけて見所は多い。


【群馬県】桐生「群馬大学工学部同窓記念会館」(桐生市)201904

重伝建地区から少し外れるが、天満宮の北にある群馬大学工学部のキャンパス内に桐生の近代機業を支えた建物が残っている。

大正4年に竣工された「桐生高等染織学校」の校舎で、後に「桐生高等工業学校」を経て戦後に「群馬大学工学部」に再編されている。

現在は同窓会館として利用され、内部見学もできる。

イギリス建築のチェダー様式で、中に入ると吹き抜けのホールを通じて講堂につながるという、明治以降の伝統的な「直轄学校方式」になっている。

煉瓦造りの正門と脇の守衛所とセットで登録有形文化財指定を受けている。

外観と講堂内部 201904


【群馬県】桐生新町「平田家住宅」(桐生市)201904

桐生は明治31年に大火に見舞われ、市街地の大半が焼失しているので、「本町通り」に多く残されている店蔵や土蔵の多くはそれ以降に建てられたものである。

この平田家住宅もその一つで、店蔵や土蔵ともに防火対策のために重厚な観音扉の窓を持っている。

上毛地区は冬にからっ風(赤城おろし)と呼ばれる乾燥した北風が吹くため、火災で延焼を防ぐため店蔵北側の壁にも白漆喰が施されているのが見える。


【群馬県】桐生新町「旧曽我織物工場」(桐生市)201904

絹織物の一大産地であった桐生には、現在ものこぎり屋根の工場が多く現存している。

こちらの「旧曽我織物工場」(大正11年築)もその一つだが、外壁が大谷石でできているのが特徴だ。

「本町通り」の西側裏手の通りに面して5連ののこぎり屋根が並ぶ壮観な外観を見せている。

「本町通り」側にある創業者の住宅「曽我家住宅」ともども有形登録文化財指定である。

曽我家住宅(明治後期築)201904


【群馬県】桐生新町「旧金谷レース」(桐生市)201904

「本町通り」から東に外れた場所に、スクラッチタイル貼りのモダンな建物がある。

こちらは「金芳織物工場」の事務所で、水平線を強調するあたり、F.Lライトの影響を受けている感がある。

隣接している煉瓦造りののこぎり屋根の建物がその工場で、現在はベーカリーとカフェとして利用されている。


【群馬県】桐生新町「有鄰館」(桐生市)201904

桐生天満宮から「本町通り」を南下すると桐生駅前に入るが、その手前に大きな「キリンビール」の扁額を掲げた店舗と白漆喰の土蔵、さらに煉瓦造りの蔵が並ぶ箇所がある。

桐生を語る際にこの光景を撮った写真が登場することが多いが、酒・醤油・味噌を醸造していた「矢野商店」で、短冊状の敷地内に江戸から昭和にかけて建てられた蔵が11も残っている。

現在は「有鄰館」として多目的に利用されている。


【群馬県】桐生「西桐生駅」(桐生市)201903

桐生市内にはJR両毛線や東武、両毛鉄道、わたらせ渓谷鉄道と4つの鉄道が乗り入れられているが、すべてが1つの場所で乗り入れられる駅が存在しておらず、複雑である。

前橋から乗り入れられている両毛鉄道の終着駅が西桐生駅で、マンサート屋根を持つ駅舎は昭和3年開業当時のものだ。

周辺に学校が多いこともあって、ちょうど下校時間帯で駅を出入りする学生が多い。



石段街で有名な伊香保温泉の発見は古く、『万葉集』にもその名が登場する。

現在の温泉街ができたのは戦国時代で、長篠合戦で負傷した武田方の兵士の療養場所として整備され、同時に石段街もできた。

近代に入っても、竹久夢二や徳富蘆花、夏目漱石など多くの文人が訪れ、御用邸やハワイ王国大師別邸も置かれた。

特に、蘆花の小説『不如帰』に伊香保温泉が登場したことで全国的に知られるようになった。

明治43年には渋川から路面電車が開通(東武伊香保軌道線)し、昭和31年にバスに変わって廃止されるまで運行された。

戦前から歓楽温泉郷として芸妓屋5軒に芸妓20人内外、カフェーや乙種料理店なども建ち並び(全国花街めぐり)、戦後を経て現在までその流れが続いた。


【群馬県】伊香保「石段街」(渋川市)201902

伊香保温泉と言えば365段もある長い石段の両側に旅館や飲食店、土産屋さんが建ち並ぶ光景である。

途中には小窓の中に温泉が中を流れていく様子が見られる。

「我国温泉都市計画第一号の地」と刻まれた碑があり、伊香保が最も古い歴史を持つ温泉街であると知ることができる。


【群馬県】伊香保「上ノ山公園からの眺望」(渋川市)201902

伊香保温泉バスターミナルの近くにロープウェイ駅があり、山頂まで登った先に展望台がある。

展望台から眼下には温泉街を望めるが、一帯が周囲を山々に囲まれた盆地であるのが分かる。

三つ山が連なる一番左側が谷川岳である。

同じ展望台から別角度へ 赤城山が見える



佐原は利根川の舟運の拠点として発達した町で、小野川畔を中心に蔵造りの商家が建ち並び、「川越」(埼玉県)とともに「小江戸」と称される。

徳川家康の江戸入府後、江戸の防衛と河川の氾濫を防ぐ目的で利根川の瀬替えが行われ、その結果として東北諸国から利根川を経て江戸へ物資を運搬する運搬の航路が確立した。

そのなかで利根川支流の小野川筋に「佐原河岸」が形成され、物資の集積地として繁昌する。

一方で、香取神宮や利根川対岸の鹿島神宮への参詣路として香取街道も古くから整備され、中近世には日用品を扱う市場が出現したとされる。

古い街並みは、小野川筋と香取街道筋がクロスする形で残っており、蔵造りの商家と共に近代的な看板建築が混在している。

佐原の市街地は明治25年の大火で多くを焼失しており、現在残っている古い街並みの多くは明治~戦前期にできたものである。

明治31年に成田~佐原間の成田鉄道が開通し、利根川水運は衰退するが、依然として北総の商都として繁栄を見せていたことが伺える。

平成8年に重伝建指定。


【千葉県】佐原「忠敬橋」付近(香取市)202006

小野川畔と香取街道が交差する場所が「忠敬橋」で、佐原旧市街の中心地点に当たる。

橋の名前は地元の偉人である伊能忠敬から採ったものだが、読み方は「ちゅうけいばし」。

かつてはアーチ形の眼鏡橋で「大橋」と呼ばれていたが、交通量の増大で現在の橋に架け替えられ、昭和45年に現在の呼び名がついた。

南西の角に建つのが「中村屋商店」という安政2年築の荒物屋で、千葉県有形文化財。


【千葉県】佐原「香取街道沿い」(香取市)202006

「忠敬橋」から香取街道に沿った町並みは佐原を代表する場所で、あらゆる場面で紹介されている。

出し桁造りの商家や重厚な店蔵、更にはイオニア式の洋風銀行建築と並び、”北総の商都”を思わせる。

手前の正文堂(明治13年)は屋根付き袖看板が目印、赤ポストの向うにある小堀屋本店(同33年)は天明年間創業の現役蕎麦屋さん。

同じ通りを反対側から撮影

同じ通りを正面から撮影


【千葉県】佐原「香取街道」(香取市)201504

香取街道を忠敬橋から東側。

カーブの正面に見える赤煉瓦の建物が「三菱館」で、川崎銀行佐原支店として大正3年竣工、後に三菱銀行佐原支店として昭和18年から平成元年まで営業を続けた。

利根川水運が明治31年の成田鉄道(現・成田線)開通以降衰退するが、こうした近代建築ができたことは商都として繁栄が続いていた証拠だろう。

手前に見える黒塗りの土蔵造りは「中村屋乾物店」で、佐原大火後の明治25年に建てられた。

同じアングルから撮影 三菱館は改装工事中だった(202006)

佐原大火(明治25年)直後に建てられた「中村屋乾物店」

工事前の「三菱館」(旧「三菱銀行佐原支店」)201504


【千葉県】佐原「正上」(香取市)202005

小野川沿いに建つ「正上」は寛政12年創業の食用油・醤油醸造業で、天保3年築の店蔵と明治期の土蔵が並ぶ。

店すぐ前の川岸にある段差は「だし」と呼ばれ、利根川から小野川を経て物資を集積する際の荷揚げ場として利用されていた。

佐原河岸の景観を代表する場所である。


【千葉県】佐原「旧油惣商店」(香取市)202006

小野川を挟んで「正上」の向かい側に建つ「旧油惣商店」は寛政年間にこの地で創業した酒造業で、明治以降は米や砂糖、下り酒を扱う問屋を営んできた。

小野川沿いには最盛期に酒造業が30軒以上も軒を連ねていたが、現在は香取街道沿いに「東薫酒造」「馬場本店」の2軒を残すのみである。


【千葉県】佐原「清見邸」(香取市)202006

重伝建地区の中心部から少し離れるが、佐原の酒蔵「馬場本店」を突き当りに南に伸びる通りにも古い街並みが見られる。

写真右側の手前にあるのは「清宮邸」で、地元の国学者である清宮秀堅の邸宅だという。

伊能忠敬は全国的に知られているが、どうやら地元では名が知られている偉人のようである。

清宮秀堅邸


【千葉県】佐原「与倉屋大土蔵」(香取市)202006

重伝建地区の中心から離れた場所にのこぎり屋根の土蔵がカーブした通りに沿って建っている。

これは酒造や醤油醸造を営んできた「与倉屋」の大土蔵で、明治22年に建てられた。



県道沿いの商家と蔵が並ぶ街並み

茨城県南東部にある潮来は霞ケ浦、北浦、常陸利根川に囲まれた町で、「水郷」として知られる。

古くから水運交通の要所として栄え、常陸国府(石岡市)から鹿島神宮への参詣道の宿駅として「板子駅」と呼ばれていたのが起源とされ、江戸時代に水戸藩領になったと同時に「鹿島の潮宮」からあやかって現在の「潮来」に改名されたといわれる。

江戸時代は東北諸国から江戸へ運ばれる霞ケ浦・利根川水運の中継地となり、東北諸藩の蔵屋敷が河岸に建ち並んでいたとされる。

鹿島神宮や香取神宮の参詣路の宿駅も兼ねていた潮来は在郷町として繁栄し、浜町に遊廓ができると吉原、大洗と「関東三大遊廓」と称されるほどの歓楽郷に成長する。

江戸中後期になると利根川水運の拠点が対岸の佐原(千葉県)に移り、さらに近代以降は常磐線の開通により陸運が隆盛したことで、湊町としての機能は失われ、水郷観光に重きを移すことになる。

利根川支流の前川沿いの旧街道沿い(現在は県道)に古い街並みが点在し、長屋門を備えた門塀の屋敷や酒蔵を目にすることができる。

一方で、隆盛を極めた潮来遊廓は昭和33年の赤線廃止と共に終焉、現在その名残はほとんど消え失せている。


【茨城県】潮来(潮来市)202006

潮来の古い街並みは連続して居るほどでなく旧街道の県道沿いにぽつりぽつりと残る程度だが、巨大な長屋門と塀、蔵が並ぶ箇所が往時の名残をとどめている。

反対側から撮影


【茨城県】潮来「愛友酒造」(潮来市)202006

潮来駅から県道を歩いて20分程だろうか、辻という地番に江戸時代から続く造り酒屋「愛友酒造」さんがある。

県道から奥に入る細い通りは両側に白壁が続き、三角屋根の蔵と塀が交互に並ぶ。


【茨城県】潮来「長勝寺」(潮来市)202006

あやめ園と並ぶ潮来の代表的な観光スポット「長久寺」は、源頼朝が武運長久を祈るために創建したと伝えられる古拙。

参道を進んで山門をくぐった先に見える本堂は茅葺き屋根で歴史を感じさせる。

正面から臨むと、屋根に源氏の家紋(笹りんどう)が並んでいるのが見える。

江戸時代に創建された山門 当初は普門院の門だったが徳川光圀によって現在地に移築


【茨城県】潮来「あやめ園」(潮来市)202006

潮来の代表的名所「あやめ園」は潮来駅から徒歩3分ほどの至近にある。

霞ケ浦から常陸利根川へ注ぐ前川に沿って広大な敷地に菖蒲(あやめ)の苗が並び、6月ごろが咲き頃、同時期には毎年あやめ祭りが開催される(2020年は中止)。

今回はこのシーズンを狙って早朝に東京を出て2時間かけて訪問、満開とまではいかなかったが色よりどりの花が敷地いっぱいに咲き誇っていた。

年中無休、24時間無料で入れるのがうれしく、地元民の散歩姿も見かける。

園内には橋幸夫のデビュー曲「潮来笠」の歌碑と銅像が立っている。


【茨城県】潮来「前川」(潮来市)202006

霞ケ浦から常陸利根川に注がれるのが前川で、潮来市街地を縦断する形で流れる。

川沿いには十二橋めぐりの舟が何艘も繋留していて、かつて水運で繁栄してきた潮来が水郷観光で支えているのを伺えるが、市中の旅館やホテルなどを見ても時代に取り残されている風の佇まいで、観光で生き残る厳しさを感じさせる。

水門の先には常陸利根川が流れ、対岸が千葉県だ。

常陸利根川(対岸は千葉県)