【岡山県】玉島(倉敷市)


美観地区からは西に約10㎞と離れている倉敷市玉島地区だが、昭和42年までは児島市とともに玉島市として独立した市だった。

名前に”島”の文字があるように、元々は瀬戸内海に浮かぶ小さい島々だったが、江戸時代初期から港町の建設と新田開発による干拓が進められ、明治中期まで瀬戸内有数の港町として繁栄し、備中地区の物流の拠点となった。

その往時の繁栄を物語る古い街並みが残る一方で、昭和の雰囲気を色濃く残した商店街が地元民の暮らしを支えながら温かみのある景観を保ち続けている。

美観地区と比べると派手さこそないものの、水辺に囲まれ多様な景観に恵まれた独特の町並みは、映画の舞台にも登場する。


【岡山県】玉島「通町商店街」(倉敷市)202101

玉島地区で最も古い商店街が「通町商店街」で、約230mにも及ぶアーケードが続く。

かつての国道2号線でもあり、映画館もあるなど玉島きっての繁華街でもあった。

昭和の雰囲気を色濃く残す商店街だが、創業100年超もの店舗も残っている。

水路越しに見える通町商店街のアーケード


【岡山県】玉島「通町商店街」(倉敷市)202101

アーケードから外れた先には、虫籠窓や海鼠壁を持つ平入店舗が見られる。

アーケード外れに並ぶ商家


【岡山県】玉島矢出町「西爽亭(さいそうてい)」付近(倉敷市)202101

玉島は備中松山藩の外港で、その貴重な遺構が旧矢出町にある「西爽亭(さいそうてい)」である。

この地の庄屋・柚木家の旧宅で、藩主の御座所でもあった。

幕末の戊辰戦争の際、藩主の護衛をしていた家臣熊田恰(あたか)が玉島に上陸したが、藩が征討の対象となっていたため、部下150余人の命と引き換えに次の間で自刃したが、玉島が幕末維新の戦火から免れたエピソードとして語り継がれている。

西爽亭御成門から熊田恰の自刃した部屋が見える


【岡山県】玉島「仲買町」(倉敷市)202101

良寛ゆかりの円通寺門前に、江戸時代から明治にかけてとされる虫籠窓や海鼠壁を持つ平入商家や土蔵が並ぶ通りが続いている。

かつて玉島港で荷揚げされた物品を卸売りする仲買人が多く店を構えていたことで、「仲買町」と呼ばれていた。

仲買町には造り酒屋や味噌・醤油商、紙商などが今でも残る。

円通寺門前の町並み。向こうに近代的な銀行建築が見え、玉島の往時の発展ぶりを垣間見る。

玉島仲買町の造り酒屋

玉島仲買町の町並み


【岡山県】玉島新町「大国屋(川田甕江生家)」(倉敷市)202101

仲買町と共に江戸時代の町並みを残している玉島新町は、問屋街として200以上もの土蔵が並び、現在も虫籠窓の商家や土蔵などが今も多く残る。

「大国屋」は江戸時代中期の建物で、綿廻船問屋だったと同時に学者・川田甕江の生家でもあった。

熊田恰の自刃に際し、玉島を戦火から守り部下の助命嘆願書を備前藩に提出する草案を作った。

伝統的な商家と近代的な銀行建築が並ぶ「新町」の町並み

江戸時代中頃の廻船問屋「西綿屋」は備中綿を扱う店だった

天保3年築の「向三宅邸」

女流歌人安原玉樹の生家は新町で最古の建物だという


【岡山県】玉島天満町(倉敷市)202101

玉島柏島は高梁川河口の西側に浮かぶ小島だったが、江戸時代の干拓事業により陸繋化された。

備前松山藩の外港として玉島湊が発達し、仲買町・新町とともに柏島の天満町も問屋街として繁栄した。

地形に沿って湾曲された旧道沿いには往時の繁栄を思わせる虫籠窓や海鼠壁の重厚な商家が残っているが、同時に円窓や二階に欄干をしつらえた家屋も残っており、この地が遊興地であることを匂わせる遺構が残っている。

『全国遊郭案内』の記載では貸座敷13軒に娼妓約50人いたという。

遊郭の名残りを匂わせる町並み

古いお稲荷さんの並びにそびえる三層楼


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郷愁の風景

(旧★KENTAの写真創庫★) 東京や近郊(ごくまれに遠方)を中心に、 散歩がてらデジカメ📷で下手糞な写真を撮り続けています。 人様にお見せするというよりは、忘備録的なアルバムとなっています。 【主な対象物】 古い民家や街並み 遊里跡(遊廓・赤線・カフェー街・花街) レトロ建築 その他心象風景