【東京都】淡路町・須田町(千代田区)
神田須田町には江戸時代より「八つ小路」と呼ばれるように道が八方から集まり、神田川や日本橋川など運河にも恵まれ、交通の要所だった。
明治以降も都電の路線が集結し、中央線の始発駅として赤煉瓦造りの万世橋駅が開業したことから、須田町から淡路町にかけて一帯は神田きっての繁華街を形成する。
(万世橋駅は中央線の延伸などによりターミナル駅の機能が低下、昭和18年に休止)
東京大空襲で周辺地域が焼失する中、この一帯は奇跡的にも戦災から免れている。
特に靖国通りや外堀通り、神田川に挟まれた三角形街区を歩くと、現在も戦前建築が多く残る。
そのほとんどは関東大震災以降の復興に伴い再建されたもので、料亭風の木造建築や銅板葺き・モルタル貼りの看板建築とバラエティに富む。
【東京都】須田町「旧万世橋駅遺構」202002(千代田区)
明治43年に辰野金吾の設計により万世橋駅が開業、大正8年に東京駅まで延伸されるまで中央線のターミナル駅だった、
当時の駅舎が後の東京駅のモデルになったと言われるが、関東大震災で駅舎が焼失、規模縮小を経て昭和18年に駅は休止。
現存する赤煉瓦の遺構を利用した商業施設「マーチエキュート」が入っている。
【東京都】淡路町「いせ源」(千代田区)201612
靖国通りや外堀通り、神田川に挟まれた三角形街区は「神田連雀町」と呼ばれた古くからの繁華街で、池波正太郎がこよなく愛した町でもある。
関東大震災後に再建された木造建築の老舗が集中し、何れも東京都歴史的建築物に選定されている。
鮟鱇の老舗「いせ源」は天保9年創業で、現在の建物は関東大震災で焼失後の昭和5年に建て替えたもの。
【東京都】淡路町「ぼたん」(千代田区)201612
鳥すきの老舗「ぼたん」は明治30年ごろの創業、現在の店舗は昭和4年築。
【東京都】淡路町「竹むら」(千代田区)201612
名代が揚げ饅頭の甘味処「竹むら」は昭和5年創業で、建物もその当時からのもの。
池波正太郎のエッセイや「ラブライブ」なども登場している。
【東京都】淡路町「神田まつや」(千代田区)201612
明治17年創業の蕎麦屋「神田まつや」、現在の店舗は大正14年築。
【東京都】淡路町「神田藪蕎麦」(千代田区)201612
明治13年創業の「神田藪蕎麦」は震災で一度焼失するも、同年12月に再建され、戦災からも免れ長らく健在だった。
しかし、平成25年の火災で焼失してしまい、翌年に鉄骨構造平屋建ての現店舗で再開。
釣り行灯や看板が辛くも焼け残り、新店舗になってもそのまま引き継がれる形で使われている。
「まつや」「神田藪」ともに年末の行列は恒例行事である。
この界隈で多く見られる行灯型の屋根看板(202002)
左上から時計回りに「まつや」「神田藪蕎麦」「ぼたん」「竹むら」。
【東京都】淡路町「山本歯科医院」(千代田区)201612
旧神田連雀町に残る「山本歯科医院」は、関東大震災後の昭和3年に建てられた看板建築。
耐火性を考慮したモルタル仕上げで、幾何学的なデザインを施している。
玄関脇には「神田区」と書かれていた戦前の住居表示版が残っているのも貴重だ。
【東京都】淡路町「サカエヤ」(千代田区)202002
神田駅西口から淡路町にかけて看板建築が多く残っているが、神田多町にある割長屋の銅板建築に看板を掲げている「栄屋ミルクホール」は昭和20年創業。
ミルクホールは明治~大正期に多く存在した喫茶店のような店で、当時珍しかった牛乳やパン、ケーキなどを提供し、新聞閲覧もできた。
ここも当初はミルクホールだったが、現在はラーメンやカレーなど軽食を扱う店となり、時代とともに変遷しつつ残っている。
【東京都】淡路町「みますや」(千代田区)202002
創業明治38年で、現存する東京の居酒屋では最古参。
端正な銅板葺きの看板建築は関東大震災後の昭和3年築だが、こじんまりとした外観とは対照的に店内は奥行きがある。
神田多町界隈に残る看板建築の数々(201612) 銅板葺き、モルタル貼り、マンサート屋根と多彩。
【東京都】淡路町「ニコライ堂」(千代田区)201612
正式名は「東京復活大聖堂協会」、ロシアからハリストス正教の伝道のため来日したニコライがこの地に拠点として設立した。
建物の設計はあのJ.コンドル、旧岩崎邸や鹿鳴館などを手掛けた人物である。
大聖堂の鐘楼やドーム屋根がシンボルだが、そのデザインは関東大震災で崩壊する前とは形が異なっていたそうだ。
なお、震災後の復旧工事の設計は岡田信一郎。
【東京都】淡路町「聖橋」(202002)
御茶ノ水駅の脇で神田川に架かる昭和2年築の鉄筋コンクリートアーチ橋。
「聖」という字は両岸に建つ2つの聖堂、湯島聖堂とニコライ堂を結ぶことから付けられた。
設計は山田守。
【東京都】淡路町「山の上ホテル」(千代田区)201612
神田駿河台の高台にそびえる「山の上ホテル」は昭和12年にW.M.ヴォーリズの設計により竣工。 元々は「佐藤新興生活館」という名前の建物だったが、終戦後にGHQの接収を受けた後、昭和29年に現在のホテルとしての営業が開始。
出版社が多い神田に近いことから、ここをカンヅメに使われることが多いせいか幾多の文人が泊ってきた。
川端康成、三島由紀夫、池波正太郎など錚々たる名前が挙がる。
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