【東京都】隅田川の橋
駒形橋から望む吾妻橋とスカイツリー(202004)
江戸時代に「大川」と呼ばれていた隅田川は、荒川から分岐し、東京湾に注ぐ全長23.5㎞の一級河川である。
隅田川には道路や鉄路合わせて30近くもの橋梁が掛かっており、特に関東大震災後の復興事業による架橋が少なくない。
現在は水上バスによる水運だけでなく、河川敷の「隅田川テラス」と呼ばれる遊歩道が整備されているので、橋梁をウォッチしながら散策するのにうってつけだろう。
【東京都】隅田川の橋「吾妻橋」202004
隅田川には、関東大震災後の復興事業によって架けられたものが多い。
浅草とスカイツリーがある本所界隈を繋ぐ吾妻橋は、江戸時代「竹町の渡し」と呼ばれる渡船で結ばれていたのを明和6年に架橋、大正12年の関東大震災による焼失までは木橋だった。
現在の3連アーチ橋になったのは昭和6年に架けられたもので、現在はスカイツリーやアサヒビールタワーとのセットでの景観でお馴染みだ。
【東京都】隅田川の橋「駒形橋」202004
隅田川の架橋には、関東大震災で焼失又は倒壊され後の復興事業によって新たに架けられたものが多いが、こちらの駒形橋は昭和2年に新たに架けられた橋である。
それまでは「駒形(竹町)の渡し」と呼ばれた渡船であった。
橋の袂にある「駒形堂」が橋の名前の由来になっているが、これは浅草寺の本尊である観世音菩薩が資源されたという由緒ある場所で、浅草寺草創所縁の地でもある。
【東京都】隅田川の橋「厩橋」202004
江戸時代は「御厩の渡し」という渡船だった場所に明治7年かけられたのが厩橋である。
関東大震災で被災し、昭和4年に3連アーチの下路式3連タイドアーチ橋として復興した。
蔵前に米を運ぶ荷駄馬用の厩があったことから付けられた名前で、馬を描いたレリーフが見られる。
所々に馬をモチーフにしたデザインが見られる
【東京都】隅田川の橋「蔵前橋」202004
関東大震災の復興事業において、駒形橋とともに初めて架橋されたのが蔵前橋である。
それまでは「富士見の渡し」という渡船があった場所で、昭和2年に上路式アーチ橋として初めて架けられた。
かつて蔵前に国技館があったことも関係してか、高欄に力士のレリーフが施されている。
高覧に施されている力士のレリーフ(202004)
蔵前橋と両国橋の間に架かる隅田川の鉄道橋梁。
当時両国駅どまりだった総武本線が昭和7年に御茶ノ水駅まで延伸されるが、その際に架けられたのがこの隅田川橋梁である。
設計は橋梁建築のスペシャリストの田中豊で、日本で初めてランガー桁を採用した。
【東京都】隅田川の橋「両国橋」202004
「両国」という名は、隅田川が武蔵国と上総国の境界だったことから付けられた地名。
明暦の大火で逃げ場を失った江戸市民が多数焼死してしまったため、防災を理由に架橋されたのが両国橋の始まり。
火除け地も兼ね、両国界隈は臨時の芝居小屋や茶屋などが建ち並び、江戸きっての繁華街となった。
現在の橋梁は昭和5年にかけ替えられたゲルバー橋である。
言問橋や大阪の天満橋と並んで「三大ゲルバー橋」の一つ
【東京都】隅田川の橋「勝鬨橋」202004
築地の対岸、月島は近代以降に造成された埋立地で、石川島造船所など多くの工場が存在していた。 その交通の便を図るべく、関東大震災後の計画され、昭和15年に完成したのが勝鬨橋である。
隅田川には3000トン級の船舶が航行することも多かったことから、跳開により船舶の通行が稼働になる架道橋として竣工され、昭和42年まで跳開が稼働した。
【東京都】隅田川の橋「永代橋」202004
永代橋の歴史は古く、最初に架橋されたのが元禄11年、明治30年には日本最初の鉄橋として架け直された。
現在の橋梁は関東大震災で被災後の大正15年に復興事業として再建されたもので、同時期の清洲橋と対照されることが多い。
ドイツのライン川に架けられたルーデンドルフ鉄道橋をモデルに、田中豊らの設計で手掛けられた日本初のタイドアーチ橋でもある。
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【東京都】隅田川の橋「清洲橋」202004
関東大震災の復興事業で永代橋とともに架けられた清洲橋。
永代橋が男性的で「帝都東京の門」と称されたのに対し、女性的で華美的な「震災復興の華」と称された。
ドイツの大吊橋ヒンデンブルグ橋をモデルにしたデザインで昭和3年竣工、永代橋と勝鬨橋とともに国重文指定を受けている。 (2020.04.22更新)
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