【東京都】日本堤(台東区)
日本堤は台東区の町名になっているが、もともとは隅田川の反乱から守るために築かれた土手のことで、浅草から三ノ輪辺りまで続いていた。
土手道は浅草と吉原遊廓を行き来する遊客で賑わいを見せ、並行していた水路の山谷堀もまた同様に水運で賑わったという。
土手は関東大震災後に切り崩され、跡地は土手通りという名前の道路になっているが、沿道沿いには「土手の伊勢屋」や「中江」など戦前の木造店屋が軒を連ねている。
【東京都】日本堤「土手の伊勢屋」「中江」(台東区)202003
土手通り沿いに並ぶ二軒の木造店屋はいずれも登録有形文化財指定を受けている。
右が明治22年創業の天麩羅屋「土手の伊勢屋」で、建物は関東大震災後の昭和2年に再建されたもの。
一方、隣に並ぶ馬肉の「中江」は明治38年創業、こちらも震災後の大正13年に再建された。
【東京都】日本堤「山谷堀」(台東区)202003
日本堤と呼ばれた土手に並行して、音無川から「山谷堀」と呼ばれる水路が墨田川まで通り、これもまた遊客を運ぶ水運で賑わったという。
「山谷堀」は現在暗渠化され、一部は山谷堀公園として整備されている。
こちらの通りも「山谷堀」を暗渠化してできたもので、正面にスカイツリーを望みながら、木造家屋が残る古い佇まいを見せる。
【東京都】日本堤「紙洗橋」(台東区)201510
音無川から隅田川に流れる水路は「山谷堀」と呼ばれ、かつては浅草と吉原遊廓を結ぶ水運で賑わいを見せたが、のちに暗渠化され、一部は公園化されている。
山谷堀には橋が9か所掛けられており、その一つ「紙漉橋」は付近で浅草紙が製造されていることに由来している。
浅草紙は古紙や紙くずを再生して造る塵紙(漉返紙)で、職人たちが古紙を紙舟に入れて堀の流れに曝す「冷やかす」と呼ばれる作業があった。
「冷やかし」という言葉は、その間に暇を持て余した紙職人が吉原遊廓の様子を見に行って遊ばずに帰ることから由来している。
紙洗橋の親柱 関東大震災後の昭和4年竣工当時のもの(201510)
現在の紙洗橋 竣工当時の親柱が撤去され、新たに整備されてしまっている(202003)
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