【東京都】丸の内(千代田区)
皇居の濠に沿って並ぶ丸の内のオフィスビル群(202004)
皇居(江戸城)と東京駅に挟まれた丸の内は、親藩譜代大名の屋敷や江戸町奉行や勘定奉行所、評定所といった官庁が置かれていた。
その区画が明治以降にも引き継がれて、陸軍練兵所を経て三菱に払い下げられ、明治27年の三菱一号館を皮切りにオフィスビルが建つようになる。
「一丁倫敦」「一丁紐育」などと称される町並みは、昭和30年代半ばまで高さ100尺(約31メートル)に揃えられていたが、高層化が進む今日でも丸ビルを筆頭に低階層部にその名残をとどめている。
東京中央郵便局などの戦前建築のオフィスビルが部分保存の形で高層ビルの低層部に使われているのは典型的だ。
新丸ビルテラスから望む東京駅周辺(202004)
【東京都】丸の内「東京駅」(千代田区)202004
日本で最初に鉄道が開通されたのが明治5年、新橋~横浜間だったが、さらに新橋~上野間に延伸する一環で大正3年開業。
辰野金吾設計の丸の内駅舎は昭和20年の空襲でドーム型の屋根が破壊され、長らく2階建てに縮小されての営業だったが、平成24年にドーム屋根とともに3階部分が復元。
正面口は皇室専用の入口 普段は閉ざされている
【東京都】丸の内「行幸通り」(千代田区)202004
東京駅正面口と皇居を結ぶ幅73メートルの通りで、天皇が行幸する際に東京駅までを通ったことからその名が付いた。
関東大震災後の復興事業の一環で、東京市を代表する広規格道路として大正15年に完成した。
その両側に向き合う丸ビルと新丸ビルは高層化されているものの、低階層部は100尺規制による竣工当時のイメージに即している。
東京駅を正面にとらえた行幸通り
【東京都】丸の内「日本工業倶楽部会館」(千代田区)202004
丸の内には、外観を保存して内側に高層ビルを建てる「ファサード保存」が多い。
賛否分かれるところだが、オリジナルへの敬意をこめて残すという意味ではこういった方法も一つだろう。
大正9年竣工の日本工業倶楽部会館は、玄関にオーダー柱を持つ新古典主義様式の建築物で、正面屋上の人物像は当時の日本経済を支えた産業だった石炭(男性)と紡績(女性)を表している。
左上から時計回りに、丸の内八重洲ビル(昭和3年)、日清生命館(昭和7年)、第一生命館(昭和13年)、東京中央郵便局(昭和4年)
【東京都】丸の内「三菱一号館」(千代田区)202004
丸の内は三菱が払い下げを受けてオフィス街として開発され、現在も三菱系の企業やビルが多く集まることから「三菱村」と呼ばれる。
その起源になったのが「三菱一号館」で、明治27年にJ.コンドルの設計によって建てられたクイーン・アン様式の赤煉瓦建築だ。
「三菱一号館」がある馬場先通りにはこうした赤煉瓦で栗の英国風オフィスビルが建ち並び、「一丁倫敦」と称される。
因みに、現存の建物は再開発の解体後、高層ビルの低層部に往時の通り復元したものである。
三菱一号館庭園
【東京都】丸の内「明治生命館」(千代田区)202004
関東大震災で多くの煉瓦造り建築が倒壊されると、耐震性を考慮された鉄骨造りやコンクリート造りの建築物が導入されるようになる。
19世紀末からニューヨークで流行した新古典主義様式も同時に導入され、丸ビルをはじめとする行幸通り一帯を中心に「一丁紐育」と呼ばれるようになる。
皇居の濠に沿って建つ「明治生命館」(昭和9年築)もその一つで、コリント式の列柱や建物を囲む細やかな装飾などに新古典主義様式が見られる。
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