【大阪府】山王(大阪市西成区)
山王三丁目「飛田新地」
新世界に隣接するのが西成区山王で、北部の一丁目~二丁目は細い路地が入り組んだ昔ながらの商店街や長屋が建ち並び、昔ながらの町並みを残している。
大正14年に大阪市に編入するまで「東成郡天王寺村」だったエリアで、戦前から戦後にかけて多くの芸人が住み着き「てんのじ村」と称されていた。
一方で南部の三丁目は、焼失した難波新地や曽根崎新地の代替地として大正五年に造成された「飛田遊廓(通称”飛田新地”)」で、昭和5年当時貸座敷220軒に娼妓2700人という西日本でも最大規模の遊廓地だった(『全国遊郭案内』より)。
大半が戦災から逃れたため、戦前から残る妓楼建築が和洋入り混じって残り、現在も関西を代表する遊興地として健在である。
注・山王三丁目の「飛田新地」は営業時間中にカメラを持って歩き回るのは避けた方が無難です(写真は営業時間外の早朝に撮影)。
また、町の特性から女性の一人歩きができる場所ではありません。
散策の際には十分ご留意の程を。
【大阪府】山王「鯛よし百番」(大阪市西成区)202005
飛田新地の奥まった場所にある「鯛よし百番」は遊廓開設と同時に開業の料亭建築で、国の登録有形文化財指定を受けている。
飛田遊廓では大門に近い順に「一番」「二番」と付けられると同時に格も上がり、最も格式の高い店がこの「百番」で、角地にある威容を放った外観で規模も大きく、最高格式に恥じない店構えである。
表向き”料亭”の店がほとんどの新地にあって、こちらは正真正銘の”料亭”として料理を出す店として現役。
【大阪府】山王「飛田新地」(大阪市西成区)202005
「飛田新地」の廓内、大門通りの中心部がメインストリートにあたる。
前述の「鯛よし百番」と外観が似た”料亭”が角地に建っており、懸魚をもった唐派風屋根の玄関に2階の手摺という伝統的な遊廓の妓楼建築に複数の店舗が入っている。
ひっそりと静まり返る早朝とはうって変わって、営業時間になると玄関先から客引きが通行人に声をかける光景が所々で見られるようになる。
【大阪府】山王「飛田新地」(大阪市西成区)202005
前述の写真に登場する妓楼建築の並びには、まるで軍艦を思わせるような洋風の妓楼建築が残っている。
木村聡氏の『赤線跡を歩く』にも登場するが、当時は装飾が過剰なほどにきらびやかだったが、リフォームされたのか簡素な装いにされている。
大正期に開業した新興遊廓だけあって、従来の営業形式にあった張見世(通りに面した格子越しに娼妓を陳列するような形式)を廃して写真見世にし、ダンスホールやカフェーを取り入れるなど洋風のモダンな妓楼も少なくなかったようだ。
【大阪府】山王「飛田新地」(大阪市西成区)202005
「飛田新地」の天王寺寄りに高い堤道が通っているが、これはかつて遊女の逃亡を防止するために設けられた「嘆きの壁」の名残である。
嘆きの壁沿いには近年までスタンドやバーなどが建ち並んでいたそうだが、現在はほとんど見られない。
写真の妓楼はその嘆きの壁沿いに残っていた一軒で、ベンガラ色の壁が鮮やかで和洋折衷の外観、ひときわ目立った一軒だったが、現役を退いて年数が経ち、訪問直後に解体されたようだ。
【大阪府】山王「愛隣地区附近」(大阪市西成区)202005
山王は労働者街「愛隣地区」に隣接していることもあり、木賃宿の名残を残す旅館やアパートが多く軒を連ねる。
中には玄関回りや外観を豆タイル張りで装飾している物件もあり、かつての赤線や青線を想起させる。
他にも豆タイル張り物件を多く見かけた。鮮やかパステルカラーを使用したものが多い。
【大阪府】山王「オーエス劇場附近」(大阪市西成区)202005
かつて山王は「てんのじ村」と呼ばれ、戦前から戦後にかけて上方芸人が多く住んでいた。
附近の松乃木大明神にも近松門左衛門石碑があるように、芸事と深くかかわりが深かった地といえる。
山王1~2丁目には古い佇まいを見せる長屋や商店などが軒を連ねる細い路地が並ぶが、アーケード商店街「動物園前一番館」から「オーエス劇場」のゲートが掛かっている細い通りを目にすることができる。
西成区には3軒もの大衆演芸場が現役で残っており、オーエス劇場はその一軒である。
松乃木大明神境内に残る「近松門左衛門石碑」と「猫塚」
【大阪府】山王「てんのじ村記念碑附近」(大阪市西成区)202005
山王一丁目、動物園前から天王寺駅に向かう途中に「てんのじ村記念碑」が建っている。
かつて山王は「てんのじ村」と呼ばれ、戦前から戦後にかけて上方芸人が多く住んでいたが、そうした歴史を後世に伝えるために建立されたが、フェンスに囲まれていて間近で見ることができない。
その脇にある古い旅館がいい味を出していて、連れ込み旅館を思わせる。
てんのじ村記念碑(201607撮影)
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